井上雅博論のようなものの一部 ~15期連続無敗の男~

早いもので、ヤフーの元社長だった井上雅博氏(井上さん)がこの世を去ってから、3年と3か月が経った。

市井では「趣味の人」なんて評価も出ているようだが、経営者の評価として定量的に注目すべきは、通期決算発表が15期連続無敗(増収増益)だった点ではないかと自分は思う。無配ではない、無敗である。株式公開した1997年以降、2012年に社長を退任するまで、無敗だった。その間、インターネットバブル崩壊、リーマンショック、東日本大震災も起きている。

インターネットの波に乗った、ブロードバンドの波に乗った、と外部要因を引き合いに出す声もありそうだが、少なくとも2000年代までは、日本にもインターネットポータルサイトや検索サイトと呼ばれるものが、複数存在し、競い合っていた。

自分は2002年にヤフーに入社し、2008年~2012年の間は、小僧ながら、井上さんと種々の会議でご一緒する機会にも恵まれた。

井上さんについては、濃淡はあるにせよ、皆、「頭のいい人」「すごい人」という言葉で表現することが多い。しかし、偉人に対する遠慮なのか、具体的に何がすごかったのかを明示的に示しているものは、殆どないようにも思える。マネジメントの仕組みにしても1万円以上は社長稟議だったとか、その程度のことしか語られていない。

15期連続無敗だったマネジメント手法はプログラマでもあった井上さんが書いた最高のプログラムの一つであったのではないかと思うことがある。その中には、何か一般化できる要素もあるのではないかと思い、一部書き残しておこうと思う。


井上雅博論のようなものの一部 ~15期連続無敗の男~

1.組織のマネジメント

2.提供サービス・ビジネスのマネジメント


1.組織のマネジメント

  • 結果の徹底した共有 ~社員向け決算説明会の開催~

2002年に入社して最初に驚いたのは、四半期毎の外部向けの決算説明会の後、夕方から社員を大フロアに呼んで、再度、決算説明会をしてくれたことだった。今思えば、毎回自分の通信簿を見せるようなものであるし、1時間前に話した同じ内容をまた話すなんて、普通ならやりたくないイベントだったと思う。だが、井上さんは毎回やってくれた。キャッシュフローを「おサイフの中身の増減」と、簡易な言葉で表現しながら、床に体育座りしている若者たちに向かって、ゆっくりと丁寧に説明してくれた。「シェアードバリュー(価値観の共有)」が語られがちな昨今だが、井上さんは「結果の共有」を徹底していた。

井上さんは、諺をボソっと言うことも多かった。その中の一つ「門前の小僧習わぬ経を読む」。

  • ロジックベースで話す ~巧みな「井上語」使い~

井上さんの近くで働いている人の何割かは「井上語」を話すようになる。

井上さんは、どんな相手にでも「●●がありますね。そこに●●を加えると●●になりますね。」ゆっくりとロジックを順序立てて、話していた。決して、早口で畳みかけない。だから井上さんと話した後は、皆、合点がいった顔をして帰る。そして、そんなことを何回か体験しているうちに、周りの人間は、井上さんと話し方が似てくるのだ。それだけ、聞く人が分かりやすい話し方をしてくれる人だった。

  • 人に任せられる組織設計 ~任せるところは任せる~

井上さんはプログラマ出身だけあって、組織設計においては、各事業部・本部が自立して稼働するような設計を強く意識していたように思う。結果、問いかけに対しても、「その件はAに聞いておいて」という対応を聞く機会も多かった。そして、当のAさんに聞きに行って対応が意の沿わないとき、井上さんに文句を言うと「Aは信念の人だからねー」と、嫌味なく交わすのであった。

「蛇の道は蛇(じゃのみちはへび)」、これも井上さんがたまに口にしていた諺である。

  • ポジティブシンキング ~ウイットと笑いのセンス~

暗いことは言わない、話には適度なウイットを入れる。これは会話のセンスとしか言いようがないかも知れないが、暗い話題でも暗いままで終わらせることは少なく、途中途中にウイットを入れ、そして、笑いを取るセンスに長けていた人だった。社長である以上、厳しい面もありつつ、最後は優しく見守ってくれていたように思う人が多かったのはそのせいではないかと思う。井上雅博の経営で、模倣不可能な強みを一つだけ挙げろと言われたら、それは、この会話のセンスかも知れない。

2.提供サービス・ビジネスのマネジメント

  • 10%の切り捨てを10回繰り返すと35%になる ~Yahoo! JAPANを一番使っているユーザー~

「Yahoo! JAPANを一番使っているユーザー」これは井上さん自身も時々口にしていたと思うが、本当に何十、何百もあったサービスを隅々まで使っていたかどうかは確かめようがない。だが、ユーザーが一人でもいるサービスには、何かしらの価値があると考えていたようだ。「10%の切り捨てを10回繰り返すと35%(0.9の10乗)になる。だから安易なサービスの切り捨てはいけない」と。数学科出身らしい井上さんならではの言葉だと思うが、違った見方とすると提供するインターネットサービスを分散型のポートフォリオのように考えていたようにも見える。

<補足>その後、デバイスの変化、カテゴリキラーの登場への対応については、賛否の分かれるところであると思うが、ブラウザ上で展開されるサービスについては少なくとも上記のような考え方があったと考える。

  • サーバのキャパシティは10倍 ~サービスを停止させない~

現在のクラウドの時代ではあまり考えにくいが、2000年代前半のインターネットサービスはアクセスが集中すると結構簡単に落ちた(サービスが停止した)。Yahoo! JAPANのサービスも落ちることがあった。当時はネットワークエンジニアがサーバを担いでデータセンターに増設に行っていたと記憶しているが、その時の掛け声は「キャパ(キャパシティ)を10倍にしろ」だった。

コンピュータの黎明期からコンピュータに触れ、マシン語も読める井上さんが、10進数で指示するなんて、随分と大雑把だなと思ったものだが、10倍と言われば現場は分かりやすく、10倍で落ちたのならなんとなく納得がいく。実際、サーバ関連の稟議については、優先順位を上げていたように思う。

もう一点、大事なことはYahoo! JAPANの提供するサービスのビジネスモデルの多くは広告モデルであった点だ。サーバが落ちることは、広告の在庫切れを意味する。資本効率の最大化だけを考えれば、需要に合わせて適量のサーバを増設するのが正しい。一方、サーバを10倍も多めに増設することは未使用のサーバリソースが発生する可能性を内包するが、サーバが落ちた際の顧客(ユーザー)の失望、そして、広告出稿主が他の媒体にスイッチするリスクを逓減することができる。

ページビューを商品在庫と考えると、商品棚に在庫が常にあることの意義について、深く思考していたのではなかろうか。

  • 細かいところは個別対応 ~事前対応コストは、事後対応コストよりも高くつく~

プログラマ出身だけに、バグのないプログラムを作ることが、ほぼ不可能であることを認識していたからか、ビジネスの設計においてもメインのプログラム書いてから、エラーの処理を考えるように、現場にも指示していたように思う。

「全部対応しようとして作るからダメなんだ。細かいところは個別に対応でいいんだよ。」

一般的に事前対応コストは対応範囲が広範囲に渡るため、対応範囲が確定している事後対応コストよりも高く付く。コストには当然時間も含まれる。井上さんは、判断軸を資本の効率活用・経営スピードといった点に置いていたように思う。

<補足>内部統制にかかわるようなところでは、当然、上記は適用されない。

  • 本質以外の優先順位は下げる ~スルー力(するーりょく)~

前項の事前対応コストの話にも関連するが、井上さんは、まず主目的の骨格を作り、補集合に関しては優先順位を下げて、考えていたフシがある。優先順位を下げられたほうからすれば、悔しいことこの上ないが、社長の仕事の一つは全体最適を行うことである一方、一点突破を指示するのも社長の仕事である。結果、神の声のようなステークホルダーからの要望にも、横道にブレることなく、主目的に向かってビジネスを推進することが出来たのではなかろうか。

  • 先に穴を掘るな ~キャッシュ・コンバージョン・サイクル(CCC)への意識~

新規ビジネスの審議をしていたとき、井上さんが発した言葉で印象的だったのは「先に穴を掘るな」の一言だった。要するにP/Lの前半に大きな凹み(ヘコミ)を作るな、という意味だった。資金の回収サイクル、キャッシュ・コンバージョン・サイクル(CCC)については、強烈に意識して内部の仕組みを作っていたように思う。ひいては、それが、強烈なキャッシュフローを生み出す源泉となっていたのではないだろうか。

<補足>下請法については、順守していた。

  • バリューチェーンにおける立ち位置を見極める ~スマイルカーブへの深い洞察~

現在は、事業内容も関係子会社の布陣も随分と変っているが、かつて、ヤフーの営業利益率は50%を超えていた時代があった。インターネット関連事業におけるスマイルカーブ(上流と下流の利益率が高く、中流過程は儲からない)を深く考えていたのではないかと思う。まずはユーザーの支持を得ることで、スマイルカーブの右側、右側に行く。ヤフーのリーチ(ユーザー接触度)が圧倒的であった背景には、そんな井上さんの深い洞察があったのではないかと思う次第である。

※文中、間違いや表記が適切ではない点があれば、ご連絡いただければ幸いです。

朝三暮四とDCF(ディスカウント・キャッシュ・フロー)

漢文の授業では、朝三暮四(ちょうさんぼし)と云うのを習う。

飼い主が、猿に向かって「ここに実が7個ある。朝に3個、夕方に4個あげよう。」と言ったところ、猿はえらく怒った。そこで飼い主が「では、朝に4個、夕方に3個あげよう。」と言うと、猿はえらく喜んだ。と云った具合の内容だ。

転じて、「本質を見抜けない、ぬか喜びの判断」と云った意味で使われることも多い。

ファイナンスの授業では、DCF(ディスカウント・キャッシュ・フロー)と云うのを習う。

仮に金利が年10%のとき、今もらう10.000円と1年後にもらう10,000円、どちらのほうが価値が高いか。10,000円を今もらえば、1年間で10%の金利が付くが、1年後にもらう10,000円には、1年間分の金利が付かない。

DCFでは、1年後にもらう10,000円を、現在の価値で考える際、10,000円を110%で割ってあげて、9,090円の価値と見る。故に、今もらう10,000円のほうが価値が高い。と云った具合の内容だ。

企業買収や設備投資の意思決定ツールに使われることも多い。

話を猿に戻そう。仮に、ある日の猿には昼に肉体労働が待っており、朝に食べる実のほうが、夕方に食べる実よりも50%価値が高いとする。

朝の時点で7個の実の全体価値をDCFで計算すると「朝に3個、夕方に4個の場合」は3+4割る150%で計【5.66個】。「朝に4個、夕方に3個の場合」は4+3割る150%で計【6個】となり、朝に4個もらうほうが、全体価値は高くなる。与件があるだけで、猿は極めて合理的な意思決定をしていたことになる。

モノが一時的に不足している。今もらえるトイレットペーパーと1週間後にもらえるトイレットペーパー。どちらに価値があるかは猿にでも分かる。トイレットペーパーに対し、今日代金を払って、今日の引き渡しなら800円、一週間後の引き渡しなら400円と云った取引を実現出来ないものだろうか。空になった棚を見るたびに、漢文の篠田雅雄先生の名授業を思い出すのだ。

中華料理店店主・真部:経済小説

<この小説は全部読むのに約6分かかります。前編は「安田兄弟:AI小説」>

安田兄弟のいたコンビニの常連の一人に、近くの中華料理店、西華楼(さいかろう)で働く真部(まなべ)という者がいた。

西華楼は中華丼の旨い店で、殆どの客が中華丼を注文していた。その中華丼の鍋を振っていたのが真部だった。

真部は休憩時間になると競馬の予想に滅法強い安田兄弟が働いているコンビニに向かい、競馬新聞を買い求め、安田兄弟の予想を訊いては競馬を楽しんでいた。

安田兄弟のおかげで、真部の収支は毎年プラスとなり、その分は貯蓄に回すことが出来た。真部は、今でこそ柔和な顔をしているが、以前はプロとして麻雀を打つ、所謂、プロ雀士だった。精神と体を削りながら闘う真剣勝負の日々に、このままでは長生きしないと感じていた真部は麻雀から引退し、日本各地を旅した後、得意な料理の力を生かして、西華楼で職を得ていた。そんな中、安田兄弟が退職することとなり、代わりにコンビニには、競馬を予想するAIロボット「学大アンドロイド」が設置されることになった。AIによる予想に懐疑的だった他の常連に先んじて、真部はAIに予想を委ね、当たりを連発していた。

大学で経営学を学んでいた真部は先行者利益(ファースト・ムーバー・アドバンテージ)がもたらす優位性と、プロ雀士の経験から、勝負は踏み込まなければ勝つ可能性が低い、ということを理解していた。真部はAIの予想に大枚を突っ込み連勝を続けたが、常連客の半分が学大アンドロイドの予想を頼りにするようになったところで、突然、大枚を突っ込むのをやめた。

マーケティングの理論で云うところの初期追従者(アーリーマジョリティ)まで一巡したと見るや、先細りを見越してやめたのだった。

それでも、真部の手元には普通では稼げないような大金が残っていた。

勝負師である真部は、ポーカーフェイスの研鑽を積んでいたこともあり、大金を手にしていることは、おくびにも出さず、相変わらず西華楼で鍋を振っていた。

その真部に転機が訪れたのは、西華楼の常連であった老夫婦が駅前の喫茶店をたたむと聞いたことだった。店は、出来れば地元に関係のある人に譲りたい、そんな夫婦に想いも耳に入っていた。

「あの場所で自分の店を持てたら」

真部は悩んだ末、西華楼の店主経由で真部が自分の店を出したいと思っていること、そして現金で駅前の店を買い取る用意があることを老夫婦に伝えてもらった。

金の出所について、真部は、随分前に親の遺産を相続していたことにした。また、決して遺産だけで暮らしはいけないという遺言を守り、今も西華楼で働いているということにした。

その話を聞いた老夫婦は大層感激し、駅前の物件は円満に真部の手に渡ることとなった。

駅前の店を手に入れた真部は店の名前を崇敬楼(すうけいろう)と名付け、西華楼で腕を振るっていた中華丼を提供した。ただ、真部が違ったところは、西華楼で疑問に思っていたこと、「客は本当に中華丼を求めているのか」を愚直に考え、経営に実践したことだった。

西華楼で多くの客が中華丼を注文することは確固たる事実だったが、注文する客には女性も多かった。中華丼は野菜も同時に沢山摂れる食事、それがポイントなのではないかと真部は仮説を立て、野菜の少ない麻婆豆腐丼には茹でた野菜を沢山付けるなど、メニュー開発にいそしんだ。真部の狙いは的中し、崇敬楼は繁盛した。

そして、一般的な街の中華料理店ではビールを一緒に頼んでもらうぐらいしか客単価向上の手段がない中、野菜多めのメニューであれば、客は財布の紐を緩めてくれることとなり、西華楼時代よりも客単価を倍増することに成功した。

崇敬楼は強烈な現金を生み出すキャッシュマシーンとして機能し始め、その元手を使って、真部は駅前の物件を買い集めることとなった。ここでも真部のビジネスセンスは冴えた。他の物件では自身で飲食店を経営せず、テナント業に徹したのだった。崇敬楼と同等の店を一朝一夕に作ることは簡単なことではなく、寧ろ、崇敬楼の集客力に磨きをかけることで周辺のテナント料が上がり、結果、真部の資産が増えることを狙ったのだった。

そして、いつしか真部は地元でも有名な不動産オーナーになっていた。一方、真部は馴染みであるはずの地元で、生活のしにくさも感じはじめていた。物件を取得し収益化していく、ただそれだけのことだったが、買い占め屋として色眼鏡で見る人間が増えてきたのも事実だった。

真部の課題は、一軒一軒の家賃収入を上げることだった。客単価の向上である。その本質は中華料理店の経営と変わらなかった。ただ違うのは、メニュー開発や価格改定ができる飲食店経営と違い、賃貸経営は相場に基づく家賃交渉が付きまとうことだった。理由もなく家賃を上げる訳には行かず、これには真部も苦慮した。

そんな中、駅前に残る複合ビルを譲渡したいという話が舞い込んで来た。

複合ビルを買う資金は十分にある。問題は購入した後に収益に結びつけられるかどうかだ。崇敬楼の集客力にもかかわらず、周辺の家賃相場は伸びが鈍化していた。実際、複合ビルには空きも出ており、供給過多の兆しが出ていた。

「仮に今もっている三軒の建物の収益力を各々1としよう。計3だ。複合ビルを買えば、さらに1増えて、計4となる。ただ、今回の複合ビルは年数も経っているし、ある程度リフォーム等の追加投資が必要だろう。そして、現状の需給バランスを考えると、リフォームしたからといって、家賃を上げるのには無理があると思わないか?買ったからといって4にはならない筈だ。」

真部の話を聞いていた永井(ながい)は頷いて聞いていた。

真部は続けた。

「新聞の株式欄を見ると毎日のように書いてある項目があるだろう。そう自社株の消却だ。市場(しじょう)の株数を減らして、価値を上げている。よく行われている手段だ。一方で、不動産の場合はどうだ?自分の建物や土地を燃やす人間は保険目当てのケースを除いては、まずいない。自分は今回の複合ビルを買い取った後、取り壊して公園にしようと思う。複合ビルがなくなれば、このあたりの不動産は供給不足になる。今もっている三軒の収益力が各1.4になれば、計4.2になる。リフォーム費用もかからないし、公園があれば、周辺の人も喜ぶだろう。」

かくして、駅前には住民の憩いの場となる公園が出来上がった。真部は公園を作った人間として、買い占め屋から一転、感謝される存在となった。

その後、駅前は公園が出来たことで雰囲気のいい場所としてメディアでも注目され、不動産相場は、真部の予想を上回り、1.5倍となった。

真部は寡占状態においては、追加投資よりも、面の縮小が価値の増大につながると気が付いていたのだった。

複数人が協調して値上げすることはカルテルと呼ばれ規制されるが、こういった規制外の価格上昇のメカニズムは、まだまだ存在している。公園の椅子に座り、天を仰ぎながら、真部は次のビジネスについて、思考を巡らせていた。

– この物語はフィクションです

安田兄弟:AI小説

<この小説を最後まで読むと約5分かかります>

東急東横線、学芸大学の駅から少し離れたところにあるコンビニには安田兄弟という、兄弟のアルバイト店員がいた。コンビニで兄弟がアルバイトをしていることは特に珍しいことではないが、安田兄弟の違うところは、大の競馬好きということだった。

安田兄弟は競馬新聞を買い求める客に対し、馬券の調子や客の立てた予想を聞いていたが、学校を卒業してからは、自分たちの予想も話すようになっていた。安田兄弟の予想は市井の予想より、はるかによく当たるということに気づいた客は、週末になると競馬新聞を買うためと云うよりも、安田兄弟の予想を訊くために、コンビニに行くようになっていった。週末のコンビニはとても繁盛した。

やがて、安田兄弟が揃ってコンビニを辞めることになったとき、コンビニのオーナーは、週末の売上対策を真剣に考えなければいけないほど、安田兄弟の存在は大きくなっていた。オーナーは安田兄弟に高給とともに社員になることを持ちかけたが、安田兄弟は「やりたいことがありますから」と固辞した。オーナーは諦めざるを得なかった。

オーナーには、競馬の知識はあったものの、安田兄弟のような予想が出来る筈もなく、本人も再現できるとは、皆目、思っていなかった。考えた結果、予想業務をAIに任せ、接客は対話型ロボットに任せてみることにした。AIのソフトウエアは知り合いの経営するソフトウエア会社、ホースレース・ストラクチャ―社に発注し、ロボットは既製品を活用した。そして、完成品を対話型ロボットとして、コンビニのレジ横に置いたのであった。その名を「学大アンドロイド」と名付けた。

安田兄弟時代からの常連客は当初、戸惑った。当たり前のことである、兄弟がいなくなりロボットがいるのだから。だが、常連の一人が学大アンドロイドに話しかけ、その日のメインレースの予想を聞いた。予想は見事に的中した。次週も同じ客が話しかけ、また的中した。学大アンドロイドは次第に安田兄弟の時代よりも高い的中率を叩きだすようになり、週末のレジには常に行列が出来るようになっていった。そして、半年もすると、5レースの1着馬を全て当てるWin5(ウイン・ファイブ)の当選者の多くがそのコンビニの客となり、高配当で魅力だったWin5の配当が一桁倍になるときすらあった。

コンビニのオーナーは今でこそ柔和な顔をしているが、オーナーになる前はパチプロだった。それもゴト師と言われる、パチンコ台へ細工をしたり、特殊な器具を利用して大量の出玉を獲得する、所謂イカサマ師だったのだ。そのことは安田兄弟にも言ったことはなかった。オーナーは考えた。「もしここで、学大アンドロイドに搭載しているAIに細工をして、Win5で逆張りすれば、大儲けできる。」

機は熟した。前週は大雨が降り、流石のAIも予想に歯が立たず、Win5で当たりが一人出ていない、キャリーオーバーという状態になっていた。キャリーオーバーで積みあがった額は数億円に上っていた。そして、その日は秋晴れで、風も弱く、絶好の競馬日和だった。実際、ここまでのレースは全て順当に収まっていた。

オーナーは前日からAIに細工をして、Win5の最後のレースだけ、勝ち馬と二着馬を入れ替えた予想を学大アンドロイドにさせた。狙ったとおり、コンビニの客は全員二着馬の馬券を買っていった。コンビニの客の中には学大アンドロイドの予想について、SNSを使って勝手に拡散する者もおり、その日のWin5も、売れている馬券は、ほぼ学大アンドロイドが立てた予想になっていた。

Win5のレースは1レース目から4レース目まで、順調に的中していった。そして、最後の5レース目を迎えた。

5レース目は東京競馬場の芝2000メートルのコースである。今でこそ幾分マシになったが、枠順での優劣があるコースである。学大アンドロイドは内枠の馬が勝つと予想していたが、オーナーは外枠に入った実績馬と入れ替えたのである。これなら、千に一つの波乱があっても仕方ないと思わざるを得ない。

赤い旗を持ったスターターが台に登り、各馬がゲートに入った。ゲート入りは極めてスムーズに進み、レースがスタートした。出遅れる馬は一頭もおらず、順調な展開でレースは進んだ。

二着馬になる馬が先頭となって、最終コーナーを回ってきた。東京競馬場の直線は500メートルもあるが、ほとんどの観客は二着馬になる馬の馬券を買っているため、とんでもない歓声が上がっていた。そして、皆、そのままゴールすると信じて疑わなかった。

異変が起きたのは、残り200メートルのところだった。先頭を走っている二着馬になる馬が突然失速したのだった。当たり前である。AIでは二着になる予定の馬なのだから。競馬場内は騒然とした。

失速した馬の代わりに内側から上がってきたのは、オーナーが馬券を買っていた馬だった。極度の緊張感と恍惚でオーナーの顔は真っ赤になっていた。

残り100メートルになったとき、さらに異変が起きた。大外(おおそと)からもう一頭、別の馬がもの凄い勢いで上がってきた。こともあろうに、その馬は一着馬になる予定の馬も追い越してしまった。そして、そのままゴールした。競馬場内は、さらに騒然とした。

こんなこともあろうかとオーナーは気を取り直そうとしていた。再びキャリーオーバーになれば、また来週チャレンジすればいいと。だが、レース確定の赤ランプが点灯するとともに、馬券を的中している者がいることが分かった。配当は数十億円という見たこともない高額な配当になっていたが、当日に払い戻す者はいなかった。当然、当たり馬券を持っている者が誰であるか、競馬ファンのみならず、マスコミも騒ぎだした。

翌日からマスコミはあらゆる払い戻し窓口に張り付いた。その様子はテレビのワイドショーで放映されていた。オーナーがテレビを見ていると、カメラは配当金を受け取った足で空港に向かっている人物たちを追いかけているところだった。よく見ると、テレビに映っていたのは、安田兄弟だった。安田兄弟はコンビニを辞めたあと、ホースレース・ストラクチャ―社のプログラマーとなっていたのだった。

– この物語はフィクションです

中華料理店店主・真部:経済小説」に続く

 

合祀(ごうし)と開眼供養(かいげんくよう)

コトの始まりは平成29年の初夏に菩提寺から、実家に手紙が送られて来たことだった。

菩提寺には自分の祖父・祖母・叔父が入っているお墓(A)があるのだが、その他に祖母の弟のお墓(B)と祖母の親戚筋数名が入っていると云われているお墓(C)もあった。

Bのお墓にいる祖母の弟は日清戦争で戦死したため、親戚の養子となり供養されていたのだが、その親戚も亡くなり、護持会費を納める者がいなくなっていた。

Cのお墓は以前、面倒を見ている血縁の方がいたそうなのだが、今は途絶え、こちらも護持会費を納める者がいなくなっていた。

菩提寺としては、B・Cのお墓は無縁墓となったため、墓じまいの段取りを取ることとなり、念のため血縁のある実家に連絡をしてきたのであった。

そこで、自分がご住職と今後の方針のついて、相談することになった。

ご住職は祖母の存命中にCの墓について聞き取ったことがあり、そのメモが残っていた。そのお墓は祖母のいとこが夭折した際に新檀され、以降、その親族が埋葬されていったとのことだった。その中には自分の高祖母(祖母の祖母)・曾祖父(祖母の父)も含まれていた。

血のつながっている親戚のお墓がそのまま無縁扱いとなるのは余りに忍びないので、何か選択肢がないか考えることにした。

まず浮かんだのは
【1】BとCの護持会費を納める
【2】BとCのお骨をAに納める
であった。

1は世知辛く費用面だけ考えれば、一番初期負担が少ないが後世に負担を残すことになる。

2は苗字の違う親族が同じお墓に同居することとなるのと、BとCの中に納められている骨壺の状態、量によっては、物理的に納りきらない可能性があることが分かった。

そこで、
【3】Aの傍らに石塔を立て、その下に散骨して埋葬する
という選択肢を取ることとした。

方針は決まったが、ご住職曰く、すぐに実施するわけにはいかないとのことだった。まず「無縁墳墓改葬公告」というものを行い、他に縁故者がいないかの最終確認を取ることになった。その期間には1年が必要とのことだった。

時は過ぎ、平成30年の晩夏になっても、縁故者からの申し出はなかった。確認が出来たということで、秋のお彼岸を時期が過ぎた頃に、まず「お骨出し」をすることになった。合祀(ごうし)をする準備のためでもあるが、そもそも埋葬されている骨の量を把握するという意味合いもあった。明治期に埋葬されているものについては火葬の有無さえ分からないからだ。

お骨出しの結果、Cからは骨壺4つと散骨された骨、そして、Bからは立派な骨壺が見つかると思っていたが、意に反して大腿骨の一部と思われるものが一本だけ取り出された。戦死者は骨があるだけでもいいと思わなければならないと聞いたことがあるが、戦争の悲惨さを再確認した瞬間だった。

合祀されるべき骨の量が分かったところで、石塔の大きさと位置について、石材店の方と相談し、提示されたのが、写真の石塔と図面だった。今はCAD(キャド=コンピュータによる製図)を使うそうで、極めてスムーズに製作された。

墓石の発注を行い、完成したとの連絡があったのは平成31年2月のはじめだった。そして、ご住職にお墓の改装にかかわる開眼供養(かいげんくよう)のお願いし、先日、無事、納骨まで終えることが出来た。

ここまで書くと万事スムーズに進んだように思われるかも知れないが、今回、特に気を付けた点はポイントポイントにおける合意形成、ならびに案件発生時からの費用管理とスケジュール管理であった。

お墓に関係する親族は当然のことながら自分だけではないため、方針決定においては合意形成を重視し、「聞いてなかった」ということはないよう配慮した。

次に費用管理とスケジュール管理であるが、これらはビジネスでは当たり前に管理されるものであるものの、仏事においては不文律と遠慮のかたまりのようなものがあり、特に費用においては「全部でいくらかかるか終わるまで分からない」というお願いする側から見ると、若干、尻込みしてしまう構図が存在しているのも確かだ。

そこで今回は、かなり初期の段階で、供養、及び石材や作業にかかわる費用について、あらかじめ「予算感」ということで石材店の方にお伝えしておいた。違和感があれば、その場で反応があるだろうし、反応がない場合でも供養後にお互い違和感が残ることがないだろうと考えたからだ。結果、関係者のご協力を得て、恙なく進めることが出来た。

スケジュール管理については、平成29年の段階で、改元について政府で議論されており「祖母の亡くなった平成のうちに終えたい」ということで進めた。結果、平成3年に亡くなった祖母のお墓の傍らには、平成のうちに祖母の祖母・父・弟を含む親族が、改装という名の引っ越しをしてくることができた。

以上が今回の合祀と開眼供養にまつわる記録である。

ビリヤニスト

ここ1年、隠れてハマっている食べ物がある。インド料理の「ビリヤニ」である。知己に連れられて、三軒茶屋のサンバレーホテルで食べたのがきっかけだが、こんなにハマるとは思わなかった。ヤキニクエストの傍ら、ビリヤニストを名乗ろうかと思ったが、すでにビリヤニ太郎なる方がいらっしゃるらしい。

食べはじめると意外と奥が深く(失礼)、まず製法の時点で大きな分岐がある。高価なバスマティライス茹でてからを蒸して作る本式の製法の他、普通のお米で炊き込みご飯のように作ったり、味付けチャーハンのように作ったりする製法がある。後者二つは個人的に「ダメヤニ」と呼んでいる。初めてのお店に入って「ビリヤニありますか?」と聞いて、満面の笑みで「あるよ」と言われた後、「ダメヤニ」が出てきたときのダメージは存外に大きい。

話をビリヤニに戻そう。ラーメンやお寿司はお店によって違いがあるように、ビリヤニにも違いがある。いろいろ食べているウチに自分の好みがだんだん分かってきた。具材に入っているモノやスパイスの種類が多過ぎないほうがいいのだ。

池波正太郎が鍋に入れる具材は三種類程度のほうがいいと書いていた記憶があるが、ビリヤニも、シンプルなほうがいい。バスマティライスの食感を楽しみながら、その店が作り出した味、主張したい味を堪能するが出来るからだ。

サンバレーホテル(三軒茶屋)

フンザ(葛西)

シルクロード(西日暮里)

ダメヤニの例1

ダメヤニの例2

私がゲソ天ソバについて知っている2、3の事柄

最近、ハマっているものがある。それは「ゲソ天ソバ」だ。それも、都内に何か所かある「六文そば」もしくは、その系譜のゲソ天ソバでないとダメなのだ。

ゲソというのは、ご存じのとおりイカの足である。そのままだと若干食べにくい代物だが、六文そばのゲソ天は適度にキザんだものをかき揚げ状にまとめている。しかも、事前に生姜醤油に浸して風味を出したものを揚げているのだ。

このゲソ天を関東風の真っ黒な汁に絡ませながらいただくと、徐々にかき揚げが柔らかくなり、さらに生姜の風味が広がっていく。どこでも食べられればいいのにと思うのだが、六文そばでしか食べられない。しかも、ゲソ天は人気があるようで遅い時間に行くと間違いなく売り切れている。しばらくするとまた食べたくなる。不思議な魅力のあるソバだ。

音のいい店

今の会社には朝礼というものがあり、毎朝、2人ずつ5分程度のスピーチをすることになっている。示唆に富む内容にするのか、ユーモアでクスっと笑ってもらうのを狙うか、毎回悩むのだが、うまくいった試しは殆どない。

そのときのお題は「マイブーム」だった。悩んだ末、「夕方のドトール」にした。移動の合間に空き時間が出来るとドトールでメールを見たりする機会が多いのだが、その日の夕方は耳を疑った。流れてきたのは二十数年振りに聴く曲で題名すら忘れていた曲だった。道玄坂のジュークボックスのあるバーでアルバイトしていたときに、ごくたまにかかっていたボズ・スキャッグスのシングルレコードのB面の曲だった。なんでそんな曲が突然かかったのか調べてみると、ドトールにはUSENと共同で作った選曲チームがあることが分かった。

思えば、音がいい店が好きな気がする。カフェなら神宮前のJ-Cook、バーなら恵比寿のTRACKや五本木の53263あたりが好きなのだが、音がいいからだと気が付いた。

自分の音のいい店の源流は渋谷のファイヤー通りにあるWONDER BOWL
(ワンダーボウル)だったかも知れない。自分が20歳の頃、店長はイチローさんという人だった。確か、当時28歳ぐらいだったと思う。彼はウッドベースを弾くミュージシャンでもあり、当時の自分には新鮮な曲ばかりかかっていた。アートブレイキーやジミー・スミスを聴くようになったのも彼の影響だった。

イチローさんはウルトラマン好きの料理上手でもあった。当時のメニューにはウルトラマン関連の名前のついたメニューがあり、中でもウルトラマンカレーは秀逸だった。コーヒーを淹れ方や軍モノのセーターが温かいことを教えてくれたのもイチローさんだった。

ある日、珍しいことにイチローさんは夕食に誘ってくれた。付いていくと道玄坂にある麗郷でご馳走してくれた。教えてくれたシジミのニンニク炒めはえらく旨かった。それからしばらくして、イチローさんはいなくなった。ウルトラマンカレーは今、どこにあるのだろう。

ポジショントーク

バスに乗っていたら、車両中央の出口付近に立っていた女子高生が、ご婦人に注意された。どうやら手すりの前に立っているため、ご婦人含め、足の悪い乗客の下車に支障が出るからのようだった。

車内を見回してみると、結構混んでいた。通路には女子高生がいかにも嫌がりそうなオジサンが多く乗っており、奥の席の爺さんに至っては単なる咳払いなんだか、風邪だか分かららないような大きな咳を連発していて、隣には誰も座っていなかった。彼女の居場所は出口付近にしかないように思えた。

自分は今、バスで通勤をしている。空いているときは便利な通勤手段だ。しかし、朝の通勤時間でそんなことはまずない。バスの終着はJRの駅であり、終着に近づくに従ってどんどん混んでいく。そう、終着に着く頃には身動きできないほどの超満員なのだ。そして、問題は、自分が降りるのが、その終着一つ前のバス停であるということだ。

バスの奥にいると下車時に回りの乗客に迷惑をかけながら降りなければいけない。そして、停車時間も増える。そのため、出口付近が空いているときはそこに陣取り、スムーズに降りられるようにしている。だが、出口付近に陣取っていると、なんだか、自分勝手に場所を取っているように見えなくもない。暗黙のプレッシャーを感じるときもある。そのプレッシャーから解放され、周囲に自分勝手な野郎ではないということを主張できるのは一つ前のバス停で降りる時の一瞬である。何かいい解決策はないものだろうか。