シチズン・アナデジテンプ ANA-DIGI TEMP

写真の時計はシチズン社製の(ANA-DIGI TEMP)アナデジテンプという時計である。アナログとデジタルに温度計が付いている。だからアナデジテンプ。
1980年代に発売され、同じモジュール(内部の機械)を使った時計は、かなりの数が出回っているが、これは外側に黒のプラスティックケースを纏った珍しいモデルである。

以前、時計の仕事をしていたとき、「商品はお客様のために仕入れるものだから」と、商品を自分で所有することは殆どなかったが、この時計は珍しさとスタイリングが気に入り、自ら購入し、そして、今も所有している。

1997年、返還直前の香港に初めて時計の仕入れに行ったとき、九龍半島の尖沙咀(チムシャーツイ)で見つけた5本のうちの1本がこの時計だった。この時計をすると、恐ろしく市街地に近い旧空港への着陸や、香港の人と街の熱気に驚きながら、地図を見ながら歩き回った記憶が未だに蘇るのだ。その記憶を保つためがごとく、定期的に電池交換をして使っていたが、先日、いよいよ機嫌が悪くなり、電池交換をしてもアナログの秒針が動かなくなってきた。

メーカー修理に出したところ、30年前の時計だけに、修理不能の判定だった。もうダメかと思いつつ、原宿の時計店L(エル)に修理を相談したところ、元気になって戻ってきた。どうやら、この手の時計は長年の使用によりアナログの軸に砂鉄のようなものが付いてきて、動きが悪くなることがあるらしい。

この時計には、普段は表示されないが、デジタル部分に西暦の設定をする箇所がある。指定できる範囲は1980年から2019年だ。液晶時計が出てきた当時、液晶の寿命は20年程度と言われていたこともあり、作った人は40年もあれば十分と考えていたのだろう。気がつけば来年でこの時計で西暦を設定できる年は終わる。その翌年は2020年、東京オリンピックの年、うるう年になる。そのときは同じうるう年である二回目の1980年を設定してあげようと思う。

防災の日

今日、9月1日は防災の日、1923年(大正12年)に関東大震災があった日だ。

先日、実家から「近親のお墓が無縁になる可能性があるので、お寺から手紙が来た」との連絡を受けた。自分の父方の祖母の家系になるお墓なのだが、墓石には複数の戒名があるも、正確なところは誰も把握していなかった。

家を代表し、自分がお寺を訪れると、知らなかったことが複数分かってきた。そのお墓には自分の祖母の母、そして、その母まで入っているのだそうだ。そして、祖母の母の母(高祖母というらしいのだが)、青木ミネは84歳で関東大震災で被災し、亡くなってしまっていたのである。そして、亡骸の一部が埋葬されていると、寺の過去帳に記してあった。

適切な表現を見つけにくいが、関東大震災が「身近」なものとなった瞬間だった。

宮醤油店

宮醤油 外観

東京湾アクララインを抜け、富津中央のインターチェンジから5分ほど走ると「宮醤油店」(みや・しょうゆてん)はあった。昭和7年生まれの父親から、よく「宮さん」の名前は聞いていたが、訪れるのは初めてだった。有形文化財にも登録されている建物は、想像以上に威厳があった。訪問時間を事前に伝えていたこともあり、名前を伝えると先代(五代目)の宮正蔵さんが現れた。

宮醤油店は江戸時代の創業であり、太平洋戦争の戦火も免れることが出来た。今でも木の桶を使い、昔ながらの製法で作られている醤油は地域のご当地グルメでもある竹岡式ラーメンの始祖「梅乃家」の醤油としても使われており、テレビ番組のラーメン企画でも使われたことがあるそうだ。

父親の同級生だった宮さんは祖母や伯母にも会ったこともあるそうで、よく一緒に遊んでいたことを話してくれた。また、宮醤油店のある富津市佐貫は昔は城下町であり、組合のお金を集めて千葉県で最初に銀行が出来たりと金融機能を持ったシティーであったことなどを教えてくれた。

※商品の購入はいつでも可能だが、見学の際は事前に連絡をしておいたほうが確実。

クルマでしか行けないカフェ

クルマに再び乗るようになってから、クルマで行けるカフェというものも再び開拓するようになった。駐車場があったり、近くにパーキングメーターや駐車禁止ではない道路があるカフェだ。

2006年に駐車監視が民間に委託され、駐車禁止が強化されてから、クルマやバイクを取り巻く環境は大きく変わったように思う。店の目の前にちょっと停めて珈琲飲むといったスタイルの店には停めておけなくなった。開拓しないといけないのだ。

そんな中、最近のお気に入りは、渋谷区神宮前の「J-Cook」、大森の「CoffeeOkaGarage」、東名高速入口の「スターバックス用賀店」だったりするのだが、一番は相模原市の「ZEBRA Coffee & Croissant津久井本店」だ。ここはクルマでしか行けないカフェだ。

圏央道の相模原インターチェンジを降りて、日当たりの良い道をしばらく流すと背の高い建物が現れる。聞いたところによるとオーナーが都心から50キロメートル前後の場所という条件で探し当てた場所らしい。

もともと工場だったのそこには巨大なロースターが置かれている。説明するまでもなく自家焙煎だ。高い天井の空間と戦うべく選ばれたようなJBLの大きなスピーカーからは、その日の天気に合わせたようにマイケル・マクドナルドの曲が流れている。

計算しているようで、していないかも、いや、とっくに計算済だろう、という空間の居心地がなんともいいのだ。http://zebra-coffee.com/

本郷の六差路

人は多差路を見つけると興奮する。普段見る丁字路や十字路と明らかな差分を感じるからだろう。写真では分かりにくいが、この本郷の六差路は手前・右・右奥・中央・左奥・左と道があった。非常に不自然な六差路であり、元々「何か」あったところをくり抜いた結果であろうことに想像がつく。その「何か」も気になる。国道から小路を入るといきなり現れるコントラストも素晴らしい。 – 東大正門前付近

 

新宿伊勢丹の7階にあったコーヒースタンド

昔、新宿伊勢丹の7階には、カウンターだけのコーヒースタンドがあった。確か、運営はキャピタルコーヒーだったと思う。座席数は20席ぐらい、満席の場合は壁側に並んで待つ、というスタイルだった。自分は買い物途中の母親に良く連れられていった記憶がある。

そこは伊勢丹で働く従業員の方も休憩に来る場所で、皆、当時一杯160円程度だった珈琲を飲んでいた。従って、長話しするというよりは、一服と軽食といった使い方をする人が多く、子供ながら、その独特な雰囲気が好きだった。

自分が好きなメニューはホットドックだった。そして、そのホットドックには、軽く炒めたキャベツとニンジンの千切りが入っていた。今までホットドックをいろいろなところで食べてきているが、キャベツとニンジンが入っているのは、その店でしか食べたことがない。

その店がなくなってからというものの、家でホットドックを作るときは必ず、炒めたキャベツとニンジンを入れるようにしている。そして、それを食べた瞬間にあのカウンターの雰囲気を思い出すのだ。あの雰囲気の店をいつかやってみたいと思っている。

バスの仕切人 A Facilitator In The Bus

家の近くには路線バスが三路線走っており、便利に使っている。そのバスなのだが、電車より車内が狭いが故に、時折バス特有の問題が発生する。

通路の途中で立ち止まり、後ろに詰めない人。奥に詰めるよう運転手さんがアナウンスしても一向に動こうとしない。自分のポジショニングが大事なのか、人の指示を聞きたくないのか、動機は分からないがとにかく動かない。結果、乗りたくても乗れない人が発生する。

二人掛けの席で通路側に座る人、もしくは通路側の席に荷物を置いてガードしている人。自分の席の隣は広いほうがいいに決まっているが、自分の隣よりも他を先に探してね、とメッセージを発している。さらに進行すると座れない人がいても気にしないで、そのままのケースすらある。

ストレスフルな瞬間である。

しかし、ある日、その人はいた。

いつも通りにバスに乗ると、最後部の座席中央に座っている乗客の女性から、おもむろに指示が出た。

あそこに座れ、と。

そして、その女性はバス停に止まる度に車内状況を確認しながら、乗客に対し、座る位置を的確に指示していた。当然、二人掛けの席に荷物をおくような輩も誰一人としていない。

最初はその高圧的にも取れる指示に動揺したが、しばらく乗っていると、その規律を保たれたバス空間が心地よくなっていることに気が付いた。

あのとき以来、路線バスや新幹線自由席での混乱を見る度に「ああ、あの人がいてくれたら」と思うのである。

無人化

コンビニのレジが無人化を目指しているそうだ。人不足の解消手段として、コンビニ各社が連合し、システムを構築するらしい。レジ一台あたり100万円~200万円のコストかかっても開発する意味があるという。

このままの勢いでファーストフードも無人化されていくのであろうか。そういえば、最近は券売機でメニュー細かく指定できる店が増えたような気がする。座席に備え付けのタッチパネルで注文、お会計まで完了する回転寿司店などはその最たる例だろう。

1998年頃、東京・恵比寿の九十九ラーメンの近くにフレッシュネスバーガーの店舗があった。当時の自分は移動にオートバイを使っており、オートバイを止めやすいという理由で、その店を使っていた。

ある日、いつものように食べ終わってトレーを戻しに行くと、「そのままでいいですよー」とスタッフから声かけられた。その声は、仕事だから、マニュアルにあるから、という声とは明らかに違う、優しい声だった。そして、顔を見ると、とてもいい笑顔だった。そして、今思えば、そのスタッフがいるときは、いつもより混んでいたような気がする。

時が過ぎ、その店舗はなくなり、声をかけてくれたスタッフはどこにいるかも皆目見当が付かないが、無人化やAIいう言葉を聞く度に、オートバイを止めてハンバーガーを食べたことを思い出す。

 

マムシグサ

img_0229新千歳空港のすぐ近くにありながら、2016年現在、一日の乗降者数が0~1名と廃止が検討されている千歳線の美々駅(びびえき)。その近くに美々貝塚なる貝塚がある。貝塚にある説明を見ると、5000千年前の当時は平均気温が今よりも2度~3度高く、このあたりも海だったらしい。地図で確認すると現在の海岸線から20キロも手前である。当時の人々も地球温暖化をテーマに対策を考えていたのだろうか・・・

その美々貝塚から帰ろうとすると、遠くに真っ赤な目印のようなモノが見えた。誰かかが宝物を隠した跡か、はたまた事件の痕跡か。気になって近づいて見ると、それは見事な赤い実を付けた植物だった。遠目にはベリーのような甘い実を想像させる。

さらに近寄ってみると、なんだが薄気味悪い。実の根元が真っ黒なのだ。なんだか触るなと言っている気が知る。調べてみたら、マムシグサという有毒植物の実だった。食べると喉に激痛が走り、最悪の場合は死ぬらしい・・・それにしても、なぜこの植物は目立とうとし、そして毒をそなえているのだろうか。そんなことを考えながら、貝塚を後にした。

助川ダンス教室

IMG_3336汽車の車窓から見える海・岩礁、車で通る国道のトンネル・看板。地元に帰って来たことを認識するモノは人それぞれにあるのだろうけれど、現在の自分にとってのそれは、山手線の五反田駅と目黒駅の間にある「助川ダンス教室」に他ならない。